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ホーム > 対談 > 対談-石山社中 十世家元 石山裕雅様と対談 第2章

第2章 神様に捧げる神楽
「里神楽」は神事

藤原美津子: 「里神楽の夕べ」では、幕の合間に石山様の説明がありました。神楽は台詞が無いので、この仕草はこういう意味、こういう場面である、といった事前の知識を持っていると、舞台がとても分かりやすくなります。

 

私たちも神楽のことを理解すれば、「里神楽」をより楽しめるようになると思います。

 

石山裕雅様: 神楽は歌舞伎と違い、単なるエンターテイメントではない公演です。能と同じく引き算の世界なのです。舞の動きや、神楽面、装束なども引き算して作り上げていく。

 

 一方で歌舞伎は足し算の世界です。隈取りをしたり、動きも大げさで派手にして、ふくらませていく。同じ伝統芸能でも、まったく生き方が違うのです。

 

藤原美津子: それは言われてみないと分からない世界ですね。伝統芸能としてつい一括りにしてしまいますが、違う世界なのですね。

 

石山裕雅様: 歌舞伎はアメリカではうけて、ヨーロッパではうけないと言われています。一方、能はヨーロッパではうけて、アメリカではうけない。民族性の違いです。派手好きなアメリカ人のハリウッド映画と、ヨーロッパの哀愁漂う映画との違いのようなものです。

 

 

対談

藤原美津子: 「里神楽」がうけるのは、やはりヨーロッパの方になりますか?

 

石山裕雅様: どうでしょうか。「里神楽」は元々の原始的な神楽の発想や演出が根幹にありますが、尾ひれの部分は能や歌舞伎の良いとこ取りです。ですから、ある意味では中途半端とも言えます。貪欲に「良いとこ取り」をしてきていますから。

 

しかし、私はやはり神楽の根幹である、「神降ろし」をして神様にお観せし、その後「神送り」をして、お帰りいただくという一連の流れを最も大事にしたいのです。

 

藤原美津子: 観客が主ではなく、あくまで神様に向かって演じているのですね。そこが単なる娯楽とは一線を画しているところで、そうすることによって舞台全体が引き締まっているように思います。

 

石山裕雅様: これは、日本の国の有り様にもよく似ています。神に向かってこそ神楽である、ということと、天皇陛下がいらしてこそ日本国民である、ということは似ていると思うのです。

 

神様を降ろすことによって、その空間が神社のような神域になります。そして、お客様は氏子のような存在になる。ですから、お客様も、私と同じ目線で神様を観て、神様をお迎えし、お送りしていただきたいと思います。大きな社殿の中で式典に参列していると考えていただきたい。

 

そして、「神人和楽」という言葉通り、神様と人が一体になって「和」の芸能の神楽を観て、楽しんでいただきたいのです。

 

神楽は能とも歌舞伎とも異なる、神様と人を繋ぐ唯一無二の舞台なのです。

神様を感じる瞬間

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藤原美津子: 「里神楽」に取り組んでいて、神様の存在を強く感じたことはございますか?

 

石山裕雅様: 舞台の上では二度ありました。

 

一度目は、国立能楽堂で稲荷の神様を演じた時です。幕内から出て行く際、自分がまさに稲荷の神様の御霊になっている気がしました。幕内が本殿にあたり、まさに御扉が開く瞬間のような気がしたのです。立っている姿勢そのままで天地と繋がったようなバランス感覚。これまで感じたことがない、自分がすごい大木になったような、大きなお社になったような、そういう感じでした。

 

もう一度は、王子の「北とぴあ」でやはり同じ役を演じていたのですが、飛び跳ねた瞬間、その滞空時間を非常に長く感じたのです。まさに時間が止まったような印象でした。そして、物理的にはありえない視点で、お客さんの姿を上から見ました。

 

あれは何だったのでしょうか。そういった感覚は、作為的に得ることはできません。

稲荷の神様が稲荷山より降り立つ瞬間

神楽は、現代劇のように何かを演じるというものではなく、むしろ憑依させるという感じで、作為的なものはないのです。ただ、それぞれの役の「型(かた)」というものがあるので、「型」を修めて「器」を作らないといけません。

 

なんとか「器」を作り、いかに中身の「魂」を入れるかということです。つまり「器」を作ることによって、トランス状態になり、自分を無くした時に何かがそこに入り、成立するということでしょうか。

 

現代劇にはこの「器」は無く、「型」も無いわけです。だから、どう演じようかと考えることになるのです。

 

伝統芸能で「型」があるものは、誰がやってもそこそこ見せられるようにはなります。しかし、そこから抜けるためには、自分の在り方、自分をどう真空にするかということが重要です。

 

よく言われる例えで、「型」破りと「型」無しは違う、ということです。現代劇は「型」無しのものであり、それはそれで良いのですが、古典芸能でそれをやってしまうと収拾がつかなくなる。だから「型」を修める。

 

しかし、そこに安住していてもダメなのです。自分なりにプラスαしていく、それが素晴らしいものであれば、その人の「型」として新たに残っていきます。良くなければ残りませんから、これは実験の繰り返しです。

 

ですから、「型」破りはした方が良いのです。

 

藤原美津子:  ただし、それは「守破離」の中で十分基礎ができているからこそできることで、最初から「型」破りをやってしまったらダメですよね。

 

石山様は以前におっしゃっていましたが、「曲を作る時も、神様とぱっと会った瞬間に作れた曲は素晴らしいものができる。だけど、自分でこねくりましたりする時はいくらやってもできない」。本当にそうですね、私も原稿なんかを書いている時がそうです。

 

石山裕雅様: 自分が無くなった時に何かが入ってくる、何かのエネルギーと繋がるという感覚ですね。そして、また繋がってもらえるように、選ばれる人間でないとダメだということですね。

 

そういう閃きみたいなものの一番ベースになる力は、感謝をする心だと思います。感謝は、さまざまなことに気がつく能力でもあるのです。すべてを当たり前のことと感じていると、麻痺してしまって例え何かが降りてきていても、鈍感になって察知できないでしょう。

 

藤原美津子:  そうですね。柏手も、右の手と左の手の高さが合わなかったら音が出ません。それと同じで、神様と自分がピタッとあった時、初めて音色が出るのですから。

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